蔦屋に行って本を買った。罪と罰とか、緋文字とか、きけわだつみのこえとか、要するにそんな感じのやつを6作品10冊。足を伸ばせばなんとか届く、といったところに新しく(およそ今年の春頃)出来た巨大な店舗で、本屋というよりも本のテーマパークと呼んだ方がふさわしいような空間だ。ちょっとした陸上競技会が開けそうなくらいに広がる敷地には、まずもちろん果てしない量の真新しい書物がある。つづいてゲームソフトがあり、卓上灯があり低反発クッションがあり万年筆があり、ところどころに休憩用のベンチがあり、端の方には本を片手にゆったりと休息できる喫茶店が併設されている。馴染み深い『TSUTAYA』ではなく、どこかおどろおどろしい『蔦屋』の看板を戴くのは彼らの意気込みが強く表れているからなのかもしれない。一つ問題があるとすれば角川文庫コーナーのすぐ隣にフランス書院のコーナーを設けてしまう、そのデリカシーのなさ。ライトノベルを買うのが苦手な人がいるのと同様、フランス書院を買うのに難儀する人々はまちがいなく存在するはずで、そうした人にはちょっとハードル高いだろう。しかし殊少年達にとってはその立地が却って好条件と化すらしく、件の棚にちらっと視線を投げながら肌色の路地を往復する男子小学生は1日あたりひとりやふたりでは済まない。経営側があえてこのような効果を狙っているならば、その戦略に水を挿すのは無粋を通り越して残酷ですらある。
とにかく、楽譜から官能小説まで。その品揃えはさすがといったところで、僕にとってはとりわけ岩波文庫を揃えてくれているのはありがたい。自分の住む町には岩波文庫を取り扱う書店がひとつも、ただのひとつもないからだ。そう考えてみると図書館が本当に偉大な発明であることがわかってくる。なにしろ図書館がなければ、この町の人々は岩波文庫を目にし手に取らないまま一生を終えてしまうかもしれないし、もしかすればそんなレーベルを知りすらせずに生きてそして死ぬかもしれない。

思いがけないことだが、最近の読書が古典(と呼んでさしつかえないであろう)作品に偏るようになってきた。2002年から2008年頃まではライトノベルくらいしか読んでいなかったのが、海外SFへ行き、国内一般文芸で一息吐き、ここにきて再三メインステージが流転しようとしている。年齢的な成熟によるものだろうか。たぶん違う。人の性癖はそう変わるものではない。名高いスタージョンの黙示を窃用すれば、あらゆるものの9割はクズである。よく言ってくれた。そして僕は2002年、つまり携帯電話会社がaudocomoボーダフォンで人々の間から21世紀という言葉が早くも忘れ去られようとしていて電撃文庫が2度目の絶頂期を迎えていたあの2002年から6年もの間、クズ山を掻き分け続けていた。ただそれに疲れたというだけの話だ。村上春樹とか、ハーラン・エリスンとか、トルストイとか、そういうわかりやすい当たりくじに心がなびくのはどうしたってしようのないことなんだ。そしてその当りクジすら引き尽くしたとき、たぶん僕は本を読むのをやめてしまうだろう。探すことだって簡単にやめたのだ。いつだって小説を読みたい、でも、読みたい本がない。