ビアンカ・オーバースタディ』を読んでから、しばらく遠ざかっていたイラストノベルをもういちど本格的に読み集めてみようという思いがじわじわせりあがってきている。こういうときは外出するとまちがいないく不要な買い物に金と時を費してしまうので、おとなしく学校を休みにして部屋にこもっている。いろいろな意味で、だめな人間だとつくづくおもう。

筒井康隆ビアンカ・オーバースタディ」(星海社FICTIONS)を読む。年度の折り返しにして、男性器の切断描写に出くわすのは今年度早くも二度目となる。ひとつは本書、いまひとつは朝日新聞掲載の「聖痕」である。そちらも作者はもちろん筒井康隆なのである。私が畏れ多くも拝読した筒井御大の作品はのべ4本であるから、50%の確率で御大は男性器を切断していることになる(主観的観測)。
「聖痕」はともかく、「ビアンカ」の方は本当はそんな話ではないのだけれども、どうしてもその部分は強く後を引く。なるべくあっさり描写してくれてるので、そこが救いではある。しかしながら筒井御大、こういうの書いているときにちんこが痛くなったりしないんだろうか。もう、そういうことばっかりが気になってしまう。

この本に関しては、ライトノベルとして見る向きと筒井康隆作品として見る向き、2つの方向性があると思うのだけれども、(きっと既に散々言われているように)この両視点では評価が異なる。先に筒井御大の経歴のひとつとして本書を見ると、凡作そこそこといったところじゃないかなとおもう。と言い条、筒井康隆の凡作が読めるのは星海社FICTIONSだけという考え方もできる。だからそれもある意味では面白かったかもしれない。

ライトノベルとしてみると、これはまず作品としてまともだという点でらくらく及第ラインを通過する。つぎに、ロッサがかわいいので合格点を容易に過ぐる。そして売れているというところから名作の域である。ようは成功したということである。

内容的に特筆するならば導入部、これは毎章使い回しのバンクシーンになっているのだが、そこが素敵に簡潔でよかった。毎回形を変えて長々やられるより洗練された文が何回も登場するほうが気分がいいし読みやすいし読み飛ばしやすい。
あとがきも面白い。このなかで筒井御大は、筒井作品への橋になればといっている。確かにまちがいなく、ここを入り口に御大の作品に手をつける人間は増えるだろう。ただし一方で忘れてはいけないのは、「ビアンカ」がライトノベルをはじめる最初の一冊として大変有力な作品であるってことだとおもう。まず単巻完結である。設定がありがちで描写もくどくない。読者が負担しなければいけない固有名詞がごくわずかである。そして筒井康隆というネームバリューを持つ。出来上がりはラノベとしてみてもやや薄味だが、メリハリがついていると評してしまえばそれで済む。ライトノベル入門にこれだけ適した物件もあるまい。

ようやく組み立てが終わった。電脳時計によれば一時間程度の作業だったこととなる。一年分くらいの運動をしたのではないかというくらい疲れている。
椅子の重量がこんなにも高負荷とは思わなかった。第一にして最大の誤算である。座部と脚部を組み合わせるのにはたいへん苦しまされた。ついさっきまでそこに転がってあったはずの螺子が消失するだとか、そういった問題はこの点に比べれば実に些末なものだ。
第二の誤算、というか関門は手すりの取り付けにあった。手すりを取り付ける前に座部上体と座部底部を連結させるのだが、この際、螺子穴の配置の関係で二者を強く押し当てつつ締めてやる必要がある。その作業の直後に手すりを付設させるのだけれども、しかし手すりは逆にやや引張ながらでなければ座部とのスムーズな接続に至らない。このへんを力任せにやろうとすると、手すりの締め付けがいまいちゆるいといった悲劇につながりかねない。他人事のように書いているが一度出来上がってから締め直しているのだから手に負えぬ。
ま、ともかく終わった。座り心地は悪くない。疲弊しているからかもしれない。たぶんそうだとおもう。とすれば、椅子や寝具といったものどもにとって取り付けが困難であるということはむしろ正の作用を起こすということになる。策略である。

大学へ行き、講義を受け、新鮮なきもちで帰宅すると、Amazonにて頼んでいたものが自宅へ届いていた。Bauhutte オフィスチェア BF-68 Whicron(ホワイクロン) ハイバック マイクロファイバー デュアル。なにか物々しいが早い話が椅子である。組み立てがはじまる。少しだけ億劫ではあるが一番たのしみな時間でもある。

小説のなかの老海賊が装着しているような、黒地に髑髏印の眼帯をつけている人に会った。というか、僕の妹だった。この眼帯はね、と僕がまだ何も訊ねないうちから彼女は語りだした。財宝を手に入れた帰りの道で、鯨の化け物に出くわしたんだけど、その時やつの心臓と引き替えに、持って行かれてしまったの。僕は唖然とした。知らない間にそのような血戦が繰り広げられていたなんて。そして同時に、僕は妹をたいへん哀れに思うのだった。
そんな彼女はもう18だ。妹との生活は、僕から女性への偏見と幻想を一切合切捨て去ってくれたという点で、少なくともそれなりの意味と価値があったとおもう。兄としては、なるべく幸福に生きてほしいものだ。

どんなものにも中毒性はある。ということを、僕はいま痛感している。
メープルシロップは何かに垂らして使うものである。大概の人間はきっとそうする。パンケーキとか、ビスケットとか、ラム酒とか。すくなくとも小さじに掬ってそのまま口に運ぶような代物ではない。シロップの成分はそうする為に調節されてはいないし、人間の身体だってそれを許す風にはできてない。
とりあえず身体によくないし、財布にもあまりよくない。なによりそんなに美味しくない。甘すぎる、女子中学生の描いた恋愛小説のように甘すぎる香りが口内を蹂躙してゆく。糖分でなんだか舌がざらざらしてくる。鼻血が出そうである。こんなメープルシロップの楽しみ方はすこし間違っていると思う。あるいは、とても間違っているのかもしれない。それでも、もう僕はこれをやめられないらしい。最早やめようとすら思っていないのがその証左であろう。早くも開き直っている。
今はまだティースプーンに一杯ずつで済んでいるけれど、そのうち面倒になってきて、瓶ごと皿か何かに空けてしまうんだろう。そして大きな木のスプーンでお伽話の熊さながらにシロップを飲み始めるのだろう。まあ、運が悪かったと言うべきか。甘いものは人を虜にして止まない。そんなものに捕まってしまった僕は運が悪かった。
せっかくなので教訓めいた話をひとつ。このような時は、つまり何らかの悪魔的な魅惑に取りつかれて尚且つそれに警鐘を鳴らす自分がまだ生きているような時には、寝てしまうのがいいと思う。寝て忘れてしまうのがいい。もし一眠りしてもまだ同じ欲求に渇いていたなら、それはもう腹を決めて腰を据えてしまうべきだ。なにしろ覚悟は早く決めるに越したことはない。定期試験を諦める覚悟とか、単位不足で留年する覚悟とか。なお親類への言い訳は三通りくらい考えておくことをおすすめする。
とにかく、無数の誘惑や困難をやりすごしながら我々は生きているということを書きたかったんだ。カナダに行きたい、と僕は思った。

電子書籍には閲覧履歴が残るらしい。考えてみれば当然のことなのだが、これを知ったときは衝撃が走った。電子界が本格的に出版界のメインマーケットとなった暁には例えば生まれてから死ぬまでの読書遍歴を確認できるのがあたりまえになっているのかもしれない。自分の読んだ全ての本を任意のソートで棚にずらっと並べておける――しかも自動に――ということで、はっきり言ってその機能はうらやましい。

スペース問題の解決や持ち運びの便利さなどが推される電子書籍だが、そういうことはあまり紙派の人間たちにはなびかない。なぜならそういった問題は既に“問題”を脱して“前提”となってしまっているし、壁いっぱいの本棚いっぱいの書籍とか或いは鞄に潜ませた一冊の文庫本とかいうものに憧れとか幸福感みたいなものを見出す人間も多分いる。僕は本棚を片付けるのが好きだし書籍の並び順を考えるのが好きだ。鞄やポケットに一冊の文庫本があればその存在感だけでひとまずは大丈夫という気持ちになるのだ。そういう人間にとってスペースの問題は未来永劫解決されなくてもべつに構わないし、持ち運びを別に不便とも思わない。だから電池切れの恐れがあり他人との共有が難しいうえに記号としては反マナー的(とされることが未だに少なくない)存在である電子機器による読書よりは、これまで通りふつうに紙の物で読書をしたい。けれども。

けれども、閲覧履歴が付くなら話はべつである。なぜなら人間の頭に閲覧履歴は付かない。どれだけ遡っても記憶と記録の範囲でしか我々は自分の足跡を辿ることができないのだ。そうした利便性を推しだした上で更に電子書籍市場が拡大すれば、あちら側に片足を突っ込む人間はきっと増えてくる。
ところで、この機能はより多く本を読む、むしろ濫読する人間――つまりライブラリの貧しさを理由に電子書籍を嫌う人間に対して特にコミットするとおもわれる。なぜなら彼らこそがそうした履歴を切望しているからである。一ヶ月前の食事のメニューを思い出せないように、彼らは一ヶ月前に読んだ本を思い出せない。