地球の矛とデネブの盾

一週間近く文章らしい文章を書かずに暮らしていた。不思議なもので、あんなに馴染んでいたものだったのに、しばらく書かないでいるともう自分の書式が思い出せない。一般的に日本人はふだんから結構な量の文を書き落としているはずである。それは日記であったり、書き置きやメールやチャットであったり、指示書や報告書の類であったり、或いはテスト問題の回答や小説などといったものであるかもしれない。そういったことを全く、これはもっと強調すべきことである気がする、まったく行わなかった一週間弱。外を歩くことは増えた。考える時間も。一方で、実際に書き下すことにどうも億劫を感じはじめている節がある。そもそも俺の部屋には筆記具からして存在しない。作文はスイミングスクールのようなもので、支度をして送迎バス乗り場へ行くまでがいちばん面倒くさいのだ。

キーボードを使ってこの文章を作っている。今まではほとんど携帯電話からメールで打ち込んで送信していたので、少し新鮮に感じる。そのような環境の違いもあるかもしれない、ここまで来てもいまひとつ文章が自分のものでないような気がする。もしかすると、あんなに馴染んでいた、というのは錯覚でだったのではないか。
「一瞬一瞬でひとの内面は変化している。だから同じ文章というのはまず存在しない。そのときの自分が書いたその時のその文章があるだけだ」と刹那主義者なら言うかも知れない。
「我々は常に何かを積み重ねながら進んでいる。だから一見印象が違っていても、よくよく観察すればそこにはかつての名残があるはずだ」と言う人もいるかもしれない。
どちらが正しく思えるかなどという話をするのでは当然ない。そんなことは書きたくない。変わりたくないという願いが根底にある。本当なら肉体の時間だって止めてしまいたかった。飲酒喫煙車の運転、そんなの一生しなくていいから十四歳でいたかった。馴染んでいたように思っていたものの形を忘れてしまうのは、だから結構衝撃である。

驚くべきことに、俺は今もっとたくさんの人間と関わりたいと感じている。正確には、もっとたくさんの考え方に触れたい。しかも読書より直截的で読解よりも短絡な、つまり対話という方法によってである。この気持ちと変化を忌む心とは対立しあっているのかもしれないけれども、きっとおかしなことではない。存在は存在せず、状態のみが存在する。矛盾は直ちに許される。