きのうのきょう

昨日はやたらと人身事故の多い日だった。久しぶりに遠出したらこれである。或いはこんな頃ともなれば、日に数回の身投げなど当たり前なのかもしれない。
すべての自殺に肯定的でありたいと思う。その手段によって消極的、積極的、多少の揺らぎこそあれど、最終的にはすべての自殺を受け入れたい──もっと欲を言えば、受け入れられる社会であってほしい。
自殺とは死に方のひとつに過ぎないという意識が、まず根底にある。こうした感覚は、俺が「ゆとり」と蔑まれる、生まれたときから自殺者蔓延る世界を見てきた世代だから、かもしれない。単に昔読んだ誰かの言葉に影響されているだけ、かもしれない。ただ、自殺が罪悪であった時代は終わった。隠匿すべき民族の汚点であったような時代は。直感的だが、これは確かだ。
人並みに非生産的な日常を送っているから、生への執着が強くない。敢えて死なないのは、単に勇気がなくて踏ん切りが付かないからに過ぎぬ。痛いのや苦しいのが嫌だから徒に糞袋として活動している。それらがなくなれば(思うに人類は“死”からの逃避ではなく“死の恐怖”からの解放をこそ目指すべきだ)命を絶つのに吝かではない。
だから自殺に踏み切れた人間に対しては、ある種の敬意と羨望と、それからちょっとした劣等感を禁じ得ない。誰に向けてでもなく予防線を張っておくと、これはタナトスへの衝動がどうこうといった心の動きではないと思う。自決を肯定的に捉えることとそれを実践/先導したいと考えることは必ずしも一致を見ない。
「とてもじゃないが俺には出来ないことをやってのけた奴」への、卑屈なコンプレックスが俺の中にはある。コンプはやがて姿を変える。哲学的関心という顔をした下世話な好奇心へである。死んだやつはどういう人生を送ってどういう体験をしてどういう思考回路をなぞって“自殺”という答えに辿り着いたのか(或いはそれ以外の答えを消去したのか──自殺はあらゆる種において最終手段であると思うから)、なぜ死に場所に鉄の轍を選んだのかなぜ崖からダイブや毒物一気では駄目だったのか、そういったことは大変興味深い。
自殺する人間のことがまったく理解できない、と幾ばくかの人は言う。同感である。しかしだからといってバッシング、或いは蓋をして見なかったことにしてしまうことは俺には出来ない。
自殺者の心理に踏み込んで勝手な解釈をこねくりまわして知った顔で吹聴するのは、なるほど無恥厚顔かもしれない。それに比べれば、無関心でいる方が良心的ですらある。それでもそうせずにはおれないのは、やはり死ぬのが怖いからだと思う。暇潰しに立ち読みした雑誌で絶賛ボクっ娘攻略中だったり、振替乗車券の番号が連番であったりしたことに一々喜びを見出だしているような人間にとって、涅槃は文字通り、遠く彼岸のものだから。