ここではないどこかへ

日射しと衆目に弱い人間は、帽子を買うか自分の部屋に閉じ籠るしかない。帽子が嫌いな僕は土竜になる道を選んだ。そう、選んで採った生き方なのだ。我々のような人間が俗世で生きるのは、それは大変むずかしい。
そう思うからこそ我々は世界の隅に別の世界を作り、その中で暮らすわけだが、生憎と箱庭に流れる空気は有料だ。そこで無為に流れる時間もまた、本来ならば価値あったはずのものだ。庭を維持するための莫大なコストが支払えなくなる瞬間は、確実に来る。だからその瞬間と寿命の隙間を埋めるために、僕たちは徹底的に不摂生しなければならない。健康に気を付ける引きこもりは死ねばいいと思う。
フロムソフトウェアアーマードコアV』の容貌がすこしずつ顕になってきた。ゲーム性とリアリティが高度に共存している、プレイ動画からはそんな印象を見受けた。期待を胸に予約しに行ったら、発売日が確定しないと店頭予約はできないらしい。はじめて知った。
ところで近年なにかと頻発されるリアリティという言葉だが、この単語はもっと慎重に用いられるべきだろう。「この映画はリアルだ(だから凄い)」、「このアニメにはリアリティがない(だから観る価値がない)」というような価値観には同調できぬ──そういうことが言いたくて四〇〇〇字ほど書いてみたのだが、うまく説明することができなかった。
明らかにしたかったのは、さしあたって以下のようなことだ。
俺がコントローラを握るとき、そこに求めるのはリアリティ──臨場感や立体性といった類──そのものでは、まずない。俺を支配しているそもそもの希求は、そういったものとは寧ろ逆方向のものだ。つまり、「ここではないどこかへ」。非現実的な世界を求めて、俺はフィクション世界へ意識を埋没させていく。このような人間にとってリアリティは虚構をより虚構に見せる手段のひとつであり、リアルとは全く意味を異にする単語だ。──
続きはもう少し考えをまとめてから。