名人的に本を読みたい

読書のなにが面白いの? と野暮な質問をされることがままある。読書家を自称する者ども、というのは積極的に自称しないと他称に至らない程度の“読書家”という意味だが、そうした質問を彼ら(或いは『我々』)にするのは酷と言える。なぜなら「読書のなにが面白いのか」という問いは、本来答えられない類いの質問だからだ。
以下は戯れ言に過ぎない。
我々は生きるために食べる。食べることは目的だ。おいしく調理したり高い金出して外食したりするのは、食事のモチベーションを保っているだけ。「おいしいものを用意する」のは、「食べる」ための手段に過ぎない。
読書も同じだと考える。本を読むことは目的であるべきだ。好きなジャンルを読む、面白い作品を探す、言葉遊びを楽しむ、感想を言い合う、誰かにお勧めする、もっと言えば、読書のどこが好きなのか考える、そういったあれこれは全て、断言したい、全て、読書のモチベーションを維持するための行為である。だから「読書の何が面白いの?」=「どうして読書をするの?」という問いに答えは用意されていない、はずなのだ。
ではなぜ自称読書家にその質問を投げるのが酷なのか? これまで夥しい量の書物を吸収し、これからも絶え間なくそうし続ける者、つまり読書家ならば、上のような建前は本音として成立する。だから胸を張って「本を読むのに理由がいるかい?」そう言ってやれば良い。しかし自称読書家は、読書家を自称しているだけなので名人的な境地には遠く及ばない。にも関わらず憚りなく読書家を自称するのは、これは読書家への憧憬がそうさせるのだ。それは野心だ(或いは『無知』かもしれない。この場合は話が大分違ってこよう)。ここに目的そのものだったはずの「読書」という行為は、より大きな目的のための手段と成り下がる。自称読書家が本を読むのは「読みたいから」という以上に、卓越した知識人になりたいが為、そういうことになるわけである。
本音と建前に致命的な軋轢が生じている人間が、その間隙を突くような質問に答えるのは難しい。ベストアンサーは不可能だろう。しかし自称読書家は自称読書家であるが故に、無理くり「読書のどこが楽しいか」を説明しようとしてしまう。これは大変疲れるし、強い自己嫌悪を呼び起こす。だからそのような質問を我々に浴びせるのは酷であり止めるべきだと、こう主張したいのだ。というか、懇願したい。やめて。