果物の漢字体はどれもエロい

デュマ・フィス『椿姫』を読む。古典的名作を手に言うことでもない気がするが、俺という人間はつくづく「姫」という単語に弱いらしい。属性としての「姫」はそうでもないから、もっと単純に、つまり「姫」という字が好きなのだろう。「霞」「紫」「宮」「葉」などについても同様である。
しかし、たとえばある物や事を見たり思い浮かべたりしたとき、我々の頭に思い起こされるのは字そのものだろうか。「蜜柑」(この単語も、よく見ればなかなかコケティッシュではないか?)を想像するとき、僕たちは頭の中に蜜柑を「描く」。記憶にある蜜柑の画像を実行するのだ(専門的には表象とか呼ぶらしいが、言語心理に限らず心理学界隈は魔窟であるから深入りしない)。いかなる但し書き──腐った、小さな、某某から貰った、山積みの──も、すべてイメージとして反映される。そこに字並びに文の付け入る隙は無い。「紫」はよくて「柴」は駄目なのは、きっとこの辺に由来している。
そうすると、『椿姫』を目にしたとき、俺の脳裏にも何かしらのイメージが閃いたはずではないか。そのイメージが極めてうつくしかったが為に、俺は『椿姫』をうつくしいタイトルだと思っているのだ。ところが作品を読了した今となっては、もうすっかり打ちのめされて、初期のイメージなど色白であったことと椿の冠を戴いていたことくらいしか思い出せない。これは損失である。大きすぎる、損失。

『椿姫』は若くして死んだマルグリット・ゴーティエとの思い出をアルマン青年が「私」に語る、という形で概ね進行する。その語り口は極めて情緒豊かで感性に富み──まあそんなことは巻末の解説に大体載っているから、今さら書く必要もない。
この小説は以下のような構造をしている。つまり、
1.マルグリットとアルマンが体験をし、
2.アルマンが1を追憶し、
3.「私」が2を追憶し物語として執筆する、と。
思うにこの造りは、読者をいくらか俯瞰的にさせている。熱っぽいアルマンの語りを一度「私」がクッションすることにより、作品に落ち着きがもたらされているように感じる。これがたとえば一人称小説であったら、物語はもっと加速して、暴走の内に幕引きを迎えていただろう。この多層構造は、作品はあくまで雅に、それでいてアルマンのみをどことなく青臭い人間に魅せることに成功している。作中における彼の役割が“語り”と“主演”であることを思えば、これは奇跡的と言っていい。
しかもこうしたフィルターを重ねた上で尚、鮮やかな色彩を十全に保っているのである。この作品が二十代半ば歳の青年の手によって編まれたという事実は、多くの人間を挫折に至らしめたものと想像する。