上書き不能のソフトほど扱いに困るものはない

ロシア語を学びはじめる。新しい言語に学問として敢然と立ち向かうのは中学校の英語以来であるから、もう何年かぶりのことだ。
なぜロシア語かというと、第一に下馬評があった。ロシア語は簡単だぜ、という噂である。じゃあせっかくだしやってみようかという気になる。実際、さしたる難しさは感じない。まだ初歩の初歩だから、というのもあろう。だが周りも皆初心者で、教える側も幼児に教えるつもりで一から懇切丁寧に教えるわけだから、英語のときとは気の持ちようが大分ちがう。しかも受験だなんだというタイムリミットや目標みたいなものさえ無いのだから、これほど楽な心境はない。
第二に、ロシア女はうつくしいという偏見があった。若い、ロシア女は、うつくしい。なにもロシア語が話せるようになったところでロシアンとマブダチになれるかと言えばそんなことは有り得ないのだが、それはそれ。きっと文化的文脈を共有することに意味があるのだと思う。
第三に、これが恐らく最大の理由なのだが、ここ数ヶ月でロシア文学と呼ばれるものに原語で触れる必要があると強く感じた。トルストイドストエフスキー、まあこういった者の影もあるが、決定的だったのはやはりナボコフ、言葉の魔術師と褒めそやされたウラジミール・ナボコフの存在だ。彼の作品を原語で読むということは数年来の目標として、絶えず(とまでは言わないが)心に残ったままだった。無粋だろうか。不埒、だろうか。しかし些細でも確固たるモチベーションがあると、ΑだのΒだのΠだのの発音にも心なしか力が籠る。気がする。今宵辺りからウォッカを煽る練習も始めておこうか。
ところでロシア語に関するテキストを読んでいて、思ったことが二つ。
一つは、新しい言語体系を身につけようと動き出したときの不思議な感覚について。ロシア語にはアルファベットと形が同じで読み方が違う文字が多く存在する(たとえばCという字があるのだが、これはアルファベットのSに相当するという)のだが、そういった情報を新しくインプットしていくときの感覚は何やら漠然で掴み所がない。面白いかどうかはともかく、これは少し新鮮である。今まで揺らぎなかったものが突如突き崩され、しかも勝手に再構築を始めた、といったような。オムレツを頼んだらかに玉が出てきた気分、とか言ったらまだ少し伝わりやすくなるだろうか。
似た感じを昔どこかで味わったなあと思っていたら、答えは我が家にあった。アーマードコアシリーズで3系からN系へ、またN系から4系へ移行するときのキーアサインの変化だ。新言語の学習はキーアサインの変更と似ている。一世代前のベルトアクションで(それも決まってラスト面などで)よくあった、操作が左右上下反転になるステージを進めているときとも、やや近い。スーパードンキーコングが懐かしくなってきた。ディンキーとディク
シーのやつ。
第二は、仮に俺がロシア語を習熟してもナボコフの魂的なものは手中に収め得まいという直感である。ロシア語にどれだけ精通しようが、俺の母語は日本語のまま恐らく揺るがぬ。つまり俺が仮に今から単身ペテルブルグへ渡ったとしても、俺は日常挨拶から辞世の句に至るまで全て日本語で思考(計算)するだろう。ロシア語で話す(出力する)という形を取っていても、計算方式はたぶん永劫変えられない。ロシア語で思考できるのはロシアンだけ。であれば、ロシア語の文をロシア語の文として処理出来るのも厳密にはロシアンだけ。
結局のところ、俺は翻訳を挟んでしかナボコフを感じることは出来ないのだ。改めて動揺する。まあ、予感は、していたことだけれど。