詩的散文

トルストイ『クロイツェル・ソナタ』を読む。彼の短編ないし中編を消化しているとき、俺は物語というよりもむしろ随筆に近いなにかに目を通しているような気もちになる。高度に洗練された随筆である。或いはエッセー的であるために高度に洗練されているように見えるのかもしれない。いまでこそ我々が消費しやすいように様々なジャンルが設定されていて、作り手の方も聞き分けが良いから作品はどれも一定以上の指向性を保っているが、名作と呼ばれるものはしばしばハイブリッドである。名作とは単に偉大であるということであって、ハイブリッドが素晴らしいと言っているわけではない。偉大であることについての個人的な見解は既に述べた。とかく、彼の書き物は言わば詩的散文である。
ところで、俺はトルストイが好きか。実のところ彼の作品はどちらかといえば好きではないのだ。先に書いたようにトルストイの物語からは主義主張が遠慮なく顔を出している。俺は勤勉ではないので自分の興味の無いものに手を出すつもりはないし、その興味の範囲にしたところでひどく狭いので、「ハイブリッド」な(しかもどこか訓戒めいてすらいる)彼の文章とは馬が合わない。よってトルストイという人にも甚だ関心希薄なのだが、そのわりに一度読み出したら指も目も果たして止まらないのが不思議である。多分これこそトルストイ作品を「高度に洗練された」と月並みに評せざるを得ない理由であり、また文豪として一般に広く認知されている所以でもあろう。ふつうだったら、好きでもないのやつのエッセーなぞ金もらったって読みたくない。ところが彼は読ませるのだ。読者を否応なしに自分の世界へ引きずりこむ。そうして今日もまた、隠者志向の若者がまたひとり出来上がった。
そろそろ妄言カテゴリを加えた方がよい気がする。