フェルマー的時空間の不足/偉大であるということについての簡単な確認

気が滅入るとどうしても感傷的になって、結果前回や前々回に代表されるような腐った文をだらだらと恥ずかしげもなく発信してしまう。すぐさま消そうと思うのだが、一度書き落としたものはそれがどんな不出来な代物でも、どことなく愛しい。なので消せない。どう考えても中学二年生を拗らせている。そしてそんな自分を嫌いになれないからこの病は性質が悪いのだ。ちなみに昨日は雨天でこそあったが、どしゃ降りだった。春のあらしというやつである。雷さえ鳴ったようにおもう。散歩どころではない。

近頃アニオタのアニメへの評価が二元化しているというトピックを目にして。
批評を読むのが好きだ。中でも、素人の手により、誰かに見られるかも知れぬということなど一顧だにせず書きあげられた、二千から四千字程度のちょっと乱暴なくらいに私的な小品については愛着すら覚える。批評の方向性が自分の意見と一致すれば更なり。尚、ここでは「批評」は「推薦」や「感想」も引っくるめた、ある事象に対するあまねくアプローチのことを指していく。
この作品のどこかどう面白かったつまらなかった、という意見は誰彼の望むと望まざるとに関わらず、作者も含めた消費者各位の中に必ず発生する。我々がそれを発信(または受信)しようとするのは、一重に「共感」への多大な関心に依る。こと人間において、十全に満たされた状況はシンパシー無しには構築し得ない。これは直感的だが、多分事実だ。そして共感を生むということに焦点を絞ったとき、「批評」は恐らく極めて理に敵った手段の内のひとつとなる。『作品』を相対化(要するに一定の尺度によって位置付けるということ。言うまでもないことだがそれが何であれ相対化しないことは不可能であり、また批評という行為は宿命的に相対化を内包する)しながら更に『作品』を介して彼我の距離を測ろうというのだから、これは大変効率が良い。
批評の内容がきめ細かくなればなるほど、この測量は精度を増す。精度が増すと説得力も増し、説得力が増せばより多くの納得を得られる。納得即共感ではないが、共感するには納得が不可欠であるから、批評を如何に的確かつ面白く(「この作品のどこかどう面白かったつまらなかった、
という意見」は批評においても当然発生する)プレゼンするかは批評者の至上命題と言って良い。
その批評が、ここにきて二元化しつつあるという。二元とはすなわち「おもしろかった」か「つまらなかった」かである。これはなにもアニオタに限った話ではない。批評の簡略化は随所に見られる。たとえば店頭で、とある商品にギザギザしたちいさなシールが貼られている。シールは自然界に背中を向けたような寂しいオレンジ色をしていて、そこに茶色が滲んだ蛍光黄色の水性インクで店長一押しと銘打たれている。しかしどうしてその商品がおすすめなのか、どの辺が、他の商品と比べてどのくらいおすすめなのか、そういったことには殆ど触れられない。テレビでも書籍の巻末でも面と向かった会話でもはたまた面と向かわない対話でも、こうした光景にはよく遭遇することと思う。このような傾向が加速しつつある原因は至極単純で、よく囁かれるような情報と関心の多岐化が問題であると考えられる。
アニメの話に戻ろう。アニメは──アニメに限らず、小説漫画ゲームキャラクタ展開属性お約束その他の諸々の要素も同様だが──蓄積する。過去から現在までの経過を鑑みれば、将来的に生産されるアニメの総数は限りなく無限に近いことが予想できる。作品の数が無限なら、語るべき言葉もまた無限である。とてもではないが捌ききれない。ではどこかで力を抜くしかない。供給を抑えることはこちら側からではできぬ。ならば消費の手を緩めるか? 否。他メディアと異なる点だが、アニメは現行で視聴する場合とそれ以外とで生じるパフォーマンスの差が極めて激しい。だったらと槍玉に上がったのが批評だった。
我々は節操を知らない供給と観たいという止めどない欲求のために、のめり込まず、多くを語らず、そして共感を諦める。結果として作品の相対化は不徹底に終わり、評価は二元化せざるを得ない。評価が二元化すれば作品が二元化するのも時間の問題であろう。人は紡ぎ得る言葉の範疇でしか、思うことが出来ないから。すべてのアニメが「おもしろい」「おもしろくない」で仕分けされるのは大味に過ぎて、ややもすれば情けない。そもそも信憑性に欠け
るではないか。
批評しなければなるまい。手前勝手な論評と手前勝手な共感を、手当たり次第に送受信する必要に我々は迫られている。作品が持つ様々な側面を、我々の手で明確にしていくのだ。多くの言葉が語られれば良いと思う。多くの思考が垂れ流されるべきだと思う。しかしそうするためには、我々に与えられた時空間的余裕はあまりに少ない。ニート暇無し。

■偉大だということについての簡単な確認
和登千代子、早川あおいアルル・ナジャ蒼星石などは多くのファンを獲得し、「ボクっ娘」を大衆に広く認知させた偉大な僕っ娘たちである。ここに異論を挟む人間はそうはいまい。しかし偉大であることと至高であることは必ずしも結び付かない。彼女たちを至高と言い切るのはまだ早い。
つまり何が言いたいのかというと、近頃の僕っ娘をよく知らないからといって「やっぱり和登さんだよね」(ここまではまだいいとして)「近頃の僕っ娘はうすっぺらい」などと知った顔でほざくのはよしてくれと。なるほど確かに、最近の属性はおしなべてファッション的意味合いが強い。特に二〇〇〇年前後から、そのような風潮は爆発的な広がりを見せているとも。しかしそれは伝統的な僕っ娘を盲目的に持ち上げる理由にはならない。ツンデレに代表される大型属性席巻の煽りでサブへと成り下がりながら、それでも研鑽を積み重ね計算と情熱の上に生み出された娘から、掃いて捨てるほど書き下ろされた産業廃棄物共の中で偶然に最適要素を引き当て、ある種奇跡的に誕生したような娘まで、近代僕っ娘にも素晴らしいキャラクタはたくさんいるのである。そもそ
も昔のものがどれも良かったように感じるのは、情報の伝達手段と速度と強度と精度が貧弱だったからに過ぎない。良いと周知されたものしか耳に入ってこなかったからに過ぎない。一を見て十を知った気でいたわけである。ふん、哀れな。
偉大であるということは、偉大であるということでしかない。かわいいかどうかとは全く以て無関係。否定形も同様である。ちょっとした確認であった。

二本の軸からなる四象限を用いて視覚的に僕っ娘をソートしようと決めた。再読した新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』に後を押された形である。
軸の一つはやはり年代にすべきなのだろうか。見通しは未だ危ういままだ。見切り発車は今に始まったことでもないが。