日常と非日常のつなぎめ

いつのまにか俺はこいつらより年上になってしまっていたのだなあ、と高校野球を見ながら感傷に浸る。この種の発見は俺の思うところ、あらゆるおセンチの中で最も精神的ダメージが大きい。仮に時が可逆な代物になったとしても、このきもちを置き去りにして生きていくことはきっと出来まい。
自分と遠くかけ離れた現実は、むしろフィクションに近しい。テレビの向こう、ネットの内側、世界の反対での出来事は、それがどんな身近に思える事象でも結局のところ二と二分の一次元の域を出ない。だから我々はそうしたものに対して俯瞰者の立場を保つ。当事者に比べ、我々は概ね多くの情報を有し、精神に余裕ある状態を概ねキープしている。これは消費する者とされる者の間に生ずる覆し難い差異であり、だから我々はほとんどあらゆる面において当事者より優位だと言える。
でも時々、ふとした瞬間にあっちの世界とこっちの自分を比べてしまったりする。そうすると自分が覗き込んでいる世界は、今いる場所より明らかに輝いていることに気付く。うらやましいことこの上ない。余計に性質が悪いのは、その世界はもしかしたら俺も行けたかも知れない世界だということである。肋間神経がチクチク痛む。
ところで、サブカルチャーにおいて日常モノと呼ばれるジャンルが存在する。ノンフィクションのようなフィクションを描く、有り体に言えばそういうジャンルである。サブカルチャー外においても、違った呼び名でそのようなものはやはり存在する。
「日常を描くのは簡単だが、日常を面白く描くのは最も難しい」と言ったのは誰だったか。それだけに巧く創られた日常的非日常は多くの人間の心を抉る。遠い現実である高校野球もまた、俺のような人間からしてみれば精緻な非日常に他ならない。俺もこんな人生が送りたかった、ならまだ傷は浅い。選択が違えば、環境が違えば、生まれが違えば、俺にもこんな人生送れたかもしれないのに──こうなると我らが心は周囲への理不尽な憎悪と濁流のごとき自虐的悔恨に囚われることとなる。ある者は現実から目を反らし、ある者はあらぬ方角へ激情の矛先を向け、またある者は来世に希望の光を見る。俺の場合は、パワプロ11を起動した。正直言って、早川あおいより橘みずきの方が好きである。