もし日本の翻訳家がPEACH-PITの『ローゼンメイデン』を読んだら

英語になくて日本語に備わっているものといえば助詞が有名だが、英語は一人称も老若男女ひっくるめて皆“I”である。つまりこれは、助詞や一人称に関しては翻訳者の腕と解釈次第である程度自由が利くということを意味するのではないか? そして助詞と一人称が操作できれば、現行の萌え属性のほとんどを再現できそうではないか?
もちろん弄れるのは飽くまで語彙のあそび部分のみであるから、元書の流れや雰囲気を壊さぬよう丁寧にデフォルメしていく必要があるだろう。しかし、それは結果として現行のライトノベルに散見されるテンプレ的サブカルチャ要素の数々──あざとすぎるデレやしっつこすぎるハーレムなどを抑え込むことに繋がる。
物語の中で静かに息づく萌えを発見するのは我々のお家芸である。電撃文庫とハヤカワ辺りが手を組んで埋もれた洋書を右から左へライトノベル化……そんな日が来ることを切に願う。そのうち調子に乗って版権切れた名作を次々手に掛け出したりもするだろうが、それも個人的には歓迎したい。むしろそこまでやってくれたら儲けものである。たとえば『たったひとつの冴えたやりかた』のコーティーなんかは、僕っ娘にしてもかなり良い線行くと思うのだが。まあこれは流石にSFファンが許すまい。


あまり関係のないことを少し。
そういえば確か、杉井光神様のメモ帳』は韓国でも出版されていたはずである。向こうに男女による一人称の差はあるのだろうか。今でこそ並大抵の僕っ娘に成り果てた紫苑寺有子だが、二巻そこそこまでの彼女といったら全キャラクタ中屈指と言って良いほどきらめいていた。韓国語に僕・私の区別が無いとすれば、だからそれは、少し悲しい。