本当は『ロリータ』の書評をやるはずだった

後れ馳せながらウラジミール・ナボコフ『ロリータ』若島正訳を読了する。大久保訳よりずっと良い、と思うのは俺が単に修辞好きな面倒くさい人間だからだろうか。ともかく良かった。ちなみに俺が読んだのは単行本版なのだが、すこし後に出された文庫版はどうやら単行本の訳をいくらか練り直して註釈も加えた上で出版されているらしい。面倒臭くてろくすっぽ脚注に目を通さない俺のような人間ですら涙ぐましくなるほどの親切。いや情熱か? 藤沼貴といい若島正といい、ロシア語訳者は他語圏の訳者と比較してロシア文学の普及にずいぶん心を砕いているように見える。俺があまり本を読まないから、偶然そう映っているだけかもしれないが。
で何故今さらロリータかというと、この作品を批評する上で健全>不健全というこのうえ無く現実的かつ常識的な不等式を、哲学と双璧を成す鬱屈集団・文学野にまで引っ張ってきておられる良心篤い評論家様の御尊文をたまたま拝読したためである。深読み志向云々の件については同意しておくが、それにしたところでこの山形浩生というひとが文学っつーものをどう捉えていてそこに何を求めているのか、一度訊いてみたいものだ。変態、そりゃ褒め言葉ですよ先生。
都知事にも言えることなんだが、彼らみたいな人種はたぶん、精神が身体に追い付いていないんじゃないだろうか。本を読んでいる間、映画を見ている間、フィクションに漬かっている間、我々の精神時間は停滞する。軸を異にする精神世界に意識とか注意とか感情とか、つまり心を飛ばすことで一時的にトランスする。物語が終わると同時にその状態も解けて、ちょっとだけぼーっと感傷に浸ってみたり深呼吸してみたりする。で、このぼーっとしてる間に、止まってた心の時間が肉体の時間に追い付いてまた明日から頑張ろうかってなる。でも心の時計を上手く再起動させられない人というのもたまにいて、そういう人達はフィクションに、作られた世界に、つまり誰かの精神とか魂のようなものにずっと足を取られたまま過ごすことになってしまう。肉体と精神とのタイムラグは、どんどん広がっていく。
いま老害だなんだ言われてる人達、やたらと潔癖で自分の考えを妄信している青くさいおとなたちというのはもしかしたらそういう、心の整理がへたな人種なのではないかな。魂はごちゃまぜのまま整理がつかなくて、でも身体はみるみる老けていって。それで社会とか責任とか現実というものをうまく扱えずに空回りして、結局誰にも理解されなかったっていう独り善がりでいかにも劇的な絶望に、ビクビク感じちゃいながら死んでいくのだ。そしてきっと、俺もそうなる。トランスクライバー