似て非なるモノ

突然、妹に「僕っ娘と男の娘の違いについて」説明を求められる。酷い衝撃であった。俺の性癖の情報がどこからか漏れているのかという点もそうだが、何より、俺はその場で彼女を納得させることが出来なかった。

サブカルチャ層に限らず、ボーイッシュな少女を好む同志は多いものと思われる。『ちょっと危なっかしいところが好き』とか『稀に垣間見せる意外な脆さが好き』とかそういったディテールについては十人十色であろうが、ボーイッシュ少女が強力無比なグループとであることは間違いない。
その性質上、ボーイッシュは僕っ娘の一大派閥でもある。俺も中堅とは呼べないまでも、それなりにボーイッシュを消費してきた。例の箱入り毒ガス猫(ところでこの猫、俺の中では黒色・短毛・金の瞳・幼い雄で、銀色の鈴が付いた首輪をしている)ではないが、全てのキャラクタは喋るまで僕っ娘の可能性を秘めている。ボーイッシュともなればその期待度は当社比二倍にはね上がり、膨らまなくていいものまで膨らんでしまうこと必至。一人称「僕」が確認されるや否や勝利の笑みを浮かべることさえ少なくない。
しかしこの高揚も、諸々の描写によって其の実『男の娘』であったことなぞが発覚すれば容易く霧散してしまう。こういった体験、何も僕っ娘フリークに限るまい。男の娘の台頭に複雑な心境のボーイッシャーはそう少なくないはずである。
どんなに見かけが可愛かろうが、どんなに仕草がしおらしかろうが。男の娘と、我々の愛し求めるものとは何かが決定的にちがう。僕っ娘を──ボーイッシュを愛する者としての、それは魂の叫びだ。しかし、では、何がちがうのか?

俺は以前女装男子について短い記事を拵えたが、その際“男の娘”というワードは見出しに用いるに留めた。今さら主張することでもないが、女装男子と男の娘には明確な違いがある。
決定的なのは、身体的な違い。女装男子は往々にして二つの姿を持つ。女装時の姿と素面の姿である。これに対して男の娘は、あざとさの濃淡はあれど「女の姿をした男」すなわち男の娘としての姿しか持たない。
多くの女装男子を襲う二次性徴などという壁も、男の娘の場合は問題になりすらしない。高校生でも平気で男の娘が成立しているのが良い証拠と言える。これはフィクション性を尊重した結果などでは決してなく、単純に彼らに二次性徴が存在しないだけではないかと思う。エルフやドワーフに生理が訪れないのが不思議でないのと同様の理屈で、彼らに二面性や性徴といった要素は相応しくない。
内面的な部分に視点を移しても同じことが言える。女装男子が内的には飽くまで男女いずれかの性別を保有しているのに対し、男の娘のそれはひどく曖昧で覚束ない。しかもその曖昧さもまた特殊で、「男なのか女なのかわからない」のではなく「男でも女でもない」。彼らの心は見かけ同様に“男の娘”なのだ。男らしいのではなく、女らしいのでもなく、その言動や内面は、一貫して「男の娘らしい」。これらのことから、“男の娘”は女であるようで女でなく、かといって男とも言えない第三の性別であると信じられる。

注目すべき点は、彼らの心身の性別観が全く以て分裂していない点である。
僕っ娘の第一要素は不完全性、という主張については既に述べた。何らかの形で歪み或いは欠けていて、今一歩成熟していないところが僕っ娘の要点であり魅力だと俺は考える。一人称「僕」は、その歪さや欠落を「性別と一人称の捻転」という形で分かりやすく示しているに過ぎない。
一方で男の娘もまた不確かな存在である。しかし彼らは曖昧でこそあれ、不安定ではない。かつてコペルニクスは、世界の中心へ太陽を据えることによって既存の煩雑な宇宙観をたちどころに修正した。男の娘も同様である。「女の娘としか思えない容姿を持ちながら女ではなく、なおかつ男とも言えない」という複雑な設計図のコア部分に「※第三の性別」という単純かつ確固たる但し書きを加えることによって、男の娘は女でありながら男でもあることを許され、そこにひとつの完成を見ている。
この但し書きを軸とした調和と安定こそが男の娘を男の娘足らしめている要素であり、男の娘と僕っ娘との決定的な差違であり、また“女の子だと思ってたら男の娘だったときの異様ながっかり感”の正体ではないかとここに提唱する。その軸を我々が開き直りと呼ぶかちんこと呼ぶかは、また別の話だ。