自分の気分がよくわからないので文を書くことで確認する。今日は暖かかった。家の中より外の方が暖かいくらいだった。街中を歩いていると、もう擦れ違う人々はみんなゆるゆるとしていて、独りピーコートを着込み寒さと戦うつもりで闊歩している俺は明らかに外様だった。外様って英語で何ていうんだろう。アウトサイダー? 引きこもりなのにアウトサイダー。まあそんなことは良いんだけど。
いくつかの病名や被差別語と同じように、引きこもりやニートといった言葉も今やフランクに用いられる。ほとんどの場合、自虐的自己主張のツールとして。かくいう俺も、本当の引きこもりがどういうものか知っておきながら引きこもりと軽々しく自称することがある。
自虐というのは多分自己愛の裏返しなので、自分にもそれだけの余裕が残っているのだと確認することは少なくとも俺を安心させる。このようなエゴの暴走にはしばしばうんざりするけれども、エゴイズムを内部からブレーキングすることは構造的に難しい。彼らが屈服するのはより手軽で効果的な代替手段が発見されたときだけである。つまり、自らより劣等(と思える)な所まで自らを貶める「自虐行為」よりも手軽に自分の優性や存在意義といったものを自認出来るようになったとき、はじめてエゴイスティックな自虐は息を止める。要はもっと無条件かつ絶対的に、自信を持って自分を愛するということが出来れば良い。
そのために人に必要なものは何か。それこそ愛されることなのではないか。愛にすべてを。