○○(一般文芸)ってラノベだろ、という話題からラノベ叩きに移行する黄金パターン

ライトノベル作家には文章力が無いとかね、そういう批判は(まあこんな乱暴な物言いは主に『ライト』ユーザーによるものだと思うんだけど)しばしば目にする。それでまあ、ラノベ擁護派としてもそれを完全否定することは出来ない。むしろしたくない。なにしろ俺だって嫌いなラノベ作家はいるわけだし、事実残念なことにプロの物書きとしてはあんまりだろって言いたくなるくらい酷い文を飛ばしてくるやつもいるのです。たとえその作品が漫画になろうがアニメになろうが──というかそういうのが著名になるからこういうネガティブな意見が噴出するんだと思うのだが、まあとにかく、これは認めなければいけない。
じゃあどうしてそうなっちまうのかと少し考えてみたんだけれども、端的に述べると彼らが書こうとしていることは彼らの力をことごとく越えてる。書きたいことが先行してしまって、どう描けばいいかわからないから何だか釈然としない文章になってしまうんではないかな。
これは展開だけに限らず、作品の長さにも言えることですよね。語彙力ひとつ取って考えてみても、長いより短い方が書くのが楽なのは自明であって(この日記の記事が全体的に短いのも、こういう問題に拠るのかもしれない)。彼らも日記とかは普通に書けて、それは読み物としても面白かったりする。でも物語になると、パンクや熱暴走をイメージすると近しいと思う、どうにも不恰好になっちゃうわけです。これはある意味仕方ない話で、想像力と文章力が釣り合ってないのに想像力の方にテンポを合わせて物語作っちゃったら、そりゃあそうなる。石川淳でもそうなるよ。
まあつまるところ、自分の描けそうなプロットを立てろよーと、こう言いたい。何しろ、どんな人間もやれることしかやれない。学者が研究できることしか研究できないように、ピアニストが演奏できる曲しか演奏できないように。こんなことはニートにだってわかるわけですから。
これを反転して消費者の理論に当てはめてみると、地雷を踏みたくないひとは落ち着いた話がおすすめだ、ということに。そうするとまずアニメ化したものの大半を弾く必要があるんじゃなかろうか。
ローテンポな話といえば何だろう、有名所でも『キノの旅』に『人類は衰退しました。』なんかはなかなか地味じゃないかと思う。それから『ポストガール』や『ゼペットの娘たち』、『しあわせは子猫のかたち』。落ち着いたといっても動きが無いとかフラットとかいうわけじゃなくて、たとえば『哀しみキメラ』、『プシュケの涙』に『此よりは荒野』。電撃文庫の比率が高くなってしまって不甲斐ない気もするけれど、『君のための物語』とかね。『冬の巨人』も忘れてはいけません。
でもこういうのも、こんなこと言っては台無しかもしれないけれど、つまるところ作者の趣味性癖に依っちゃうかもっていう予感はある。秋山瑞人に『シンフォニアグリーン』のプロット渡して「地味な感じにお願いします」なんて言ったところでどうなるよ、と。
ええと、なんだったかな。そうライトノベルアンチの話でした。だからラノベへの苦情を(なぜか声高に、積極的に)捲し立てる人たちに相対した時は「それは辛かったなあ」ととりあえず話を聞いてやってから、割かし短めで落ち着いた(辛辣に言えばいかにも玄人好みしそうな)作品、これを選んで薦めてあげるのが、手っ取り早いんではと感じる。それも懇切丁寧に、Amazonのリンクを張ってあげるとか、知り合いであれば貸し出してあげるとか。論破とかではなくって、そういう地道な作業がサブカルチャーへの風当たりを和らげていくんじゃないかなと、ふと思ったわけでした。