一日に二つもタイトルなんて考えられない

陽は照っているのに、風は薫り、涼しい。そんな季節になってきた。こういった日は何かしなくてはと俺に思わせる。では何をしようかと考えているうちに一日が過ぎていくのが普段のパターン。だがもう良い加減に、俺も学習した。せめて今考えていることを思考の軌跡として残しておこう。
小説を書いてみようと思ったことが、昔あった。結果としてその試みは頓挫した。物事には始まりがあって終わりがある。小説にも同じことがいえる。始まりがあって終わりがある文章こそ論理的な文章と呼べるに違いない。少なくともかつての俺はそのように感じていたし、今だってそう信じている。
俺は論理的才知に欠けていた。物事に始まりと終わりを与えられなかったのだ。たぶん、それは致命的だった。致命的というと特別な弱みのように読んでしまいがちだけれども、致命的なものは世の中に案外あふれている。人体にとっておよそ致命的でない現象なんて、どれだけ存在するだろうか?
もちろん、俺はここで才知という言葉を使ったが、情熱を持って訓練することで起結を導く力を養えたかもしれない。というか、養えただろう。ところが俺には訓練する才知もなかった。この一文にしたって、本当はここにはもっと長口上で真に迫った言い訳もとい魂の弁解が入るはずだった。しかし面倒になったのでお茶を濁したのだ。「面倒になって」お茶を濁すというのは、最も正しい用法だと思う。そろそろ日が傾く時間だった。