六十三・六十四/そういえばカレーはじめたらしい

昨日の出費
食費
牛丼 三八〇円
雑費 なし
合計 〇円

今日の出費
食費 なし
雑費 なし

合計 三八〇円

生まれて初めて吉野家の敷居を跨ぐ。三八〇円であれだけのカロリーを摂取出来るのはありがたい話だ。
牛丼を咀嚼しながら考えたこと。現代の個人および団体が過去にタイムスリップして歴史に介入する類の作品の一派生として、末期資本主義社会の頂点まで登り詰めた牛丼屋チェーンがフランス革命に舞い降りる、そんな話があってもいいのではないか。
飢えた民。痩せた国土。腐った政治。貴賤両民の間には憎しみしかなく、斬頭台では今日も誰かの首が飛ぶ。血の大輪が乱れ咲き、もはや地獄は避けられぬ。そこに現れる朱色の看板。疎ましい商売敵も熾烈な価格競争も、醜いネガティブキャンペーンも無い十八世紀フランスに降って沸いた其の名は吉野家。最初ちいさな一飯店に過ぎなかった彼らはしかし、あまねく飢えを満たしながら、次第に一戸また一戸と増えはじめた。老いも若きも高きも低きも、肩を列べて丼をかきこむ。安い。早い。そして旨い。三八〇円で買える確かな幸せが、そこにはあった。
やがてオレンジの看板はフランス全土に広がった。しかしその動きは尚も加速していく。吉野家のあとには人が続き、人のあとには道が出来る。それは停滞経済に活を入れ、雇用と貨幣を生み続け、そして今、最後のギロチンの刃が殺がれた。牛丼という名の種が豊かさという名の芽になり、幸福という名の花を咲かせたのだ。しかしここで終わりではない、と彼らは言う。今ここに、修羅は終わった。しかしそのために失われたものを忘れてはならない──
彼らの脳裏に、屠殺された数多のフランス牛の姿
が過る。どこからか悲しげに響くこの鼻歌はもちろんドナドナである。
──犠牲となったものたちのために、ここで歩みを止めてはならない。ヨーロッパに、いや世界中に同じ花を咲かせよう。そしてこの花は博愛という実をつけ、今度は平和の種を落とすだろう。それは風に乗って、恒久の土に萌ゆるのだ。男たちの拳が、いや、丼が天に突き上げられる。そうだ、そうだ。我らが救世主。我らが牛丼。我らが吉野家。おお吉野家
米一粒残らない器の底が、月の光と群衆の熱狂をいつまでも、いつまでも映し出していた。完。