静かで穏やかで敷居が低くしかも上品な喫茶店で一生を過ごしたい

記憶の欠落は、元来防衛機構であるという。日常にありふれたものから深刻な心的外傷に至るまで、嫌なことを忘れてしまうことで我々は心の平穏を保っている。もちろん人間は時として嫌でないことも忘れる。初恋の味、古き佳き思い出、このプリントは必ずお父さんかお母さんに渡してください。物忘れは決してすっきりするものではないが、それも防衛機構の副作用なのだよと言われればなんだか許せてきてしまう。
しかしそれでは、忘れた記憶はどこへ行ってしまうのだろう。まさか身体をめぐりめぐって尿にしちまうわけにもいくまい。在ったものが綺麗さっぱり無くなるなんてことはあり得るのか。
ドライな見方をすれば──陳腐な文が続く──脳はコンピュータに、そこへのあらゆる入力はデータに置き換えられる。記憶はある程度連続した情報の累積に過ぎない。しかしすっかり忘れていたものがふとした行動をトリガーとして鮮烈に蘇る、などといった経験は誰しもにあるはずだ。僅かなきっかけからトラウマが再発するというような展開を目にすることも少なくない。様々な物事を忘れてきたように思えて、我々は実に多くの記憶を保有している。しかしながら我々が記憶を記憶と認識できるのは、それが意識上に顔を出した場合のみである。脳がしているのは、だから記憶の隠蔽に過ぎないと考えられる。意識から記憶を隔離することで、あたかもそんな過去なぞ無かったかのように見せかけるわけである。結果として我々は情け容赦無く、徹底的に、完膚無きまでに、忘れたように思わされる。忘れた端からまた忘れ、忘れたことさえ忘れていく(別の言い方をすれば、
考慮しないようになる)。逆に考えれば、我々は忘れるが脳味噌は忘れない。そのうち脳から記憶を抽出して観たり棄てたり売ったり買ったりする時代が来るやも知れぬ。
漫画版『イヴの時間』を読む。イヴの時間のアンドロイドには意識があって、もちろん感情もあって、時には夢さえ見るらしい。俺の場合は大抵、夢をあまり覚えていない。彼らはどうなのだろう。アンドロイドは電気羊の夢を忘れるか。少々興味深いところである。