巣籠カナちゃん「ぼくたちは、これからいったいどうなっちゃうんだろ?」

僕っ娘とボクっ娘、ぼくっ娘を明確に区別するという試みに着手する。唯一にして最大の課題は、それぞれの少女達に別々の公約数を発見できるか否か。野望は紛糾して、止まるところを知らない。

■今日の僕っ娘
桜庭一樹推定少女』より主人公、巣籠カナ。田舎の公立中学校に通う十五歳。義父を弓で射落とし、夜の街を逃げ回る彼女が路地裏のダストシュートに辿り着くところから、物語は始まる。
彼女のような僕っ娘を、ここでは青少女系僕っ娘と呼称する。キーワードは不安定さ、苦悩と葛藤、挫折と成長、性徴、性差、潔癖など。何故わざわざ定義したかというと、好きだからである。青少女系僕っ娘が。
言うまでもなく、「一人称『僕』」は一つの要素に過ぎない。一人称に「僕」を用いる彼女たちは時にツンデレであり、時にクーデレであり、電波でありクズでありハードボイルドである。そんな彼女たちを十把一絡げにして、我々はいつだか「僕っ娘」と名付けた。現在進行形で、僕っ娘は増殖し続けている。彼女たちの併せ呑む要素は実に多岐に亘り、今や収拾が付かぬ。それでも強いて僕っ娘を一つの旗印の下に集束させるなら、その旗印は「不完全性」であると俺は説きたい。

僕っ娘とはいわゆる「ギャップ萌え」の一種であるが、さて彼女たちは十一から十七歳くらいの年齢層に集中的に分布する。思春期と呼ばれる年代である。大人の僕っ娘を、俺は草薙水素程度しか知らない。彼女はキルドレだったし、後に一人称を改める。僕ロリババア等もいるにはいるが、例外と断言できる範疇だ。これは偶然の符合か? まさか。
二次元空間の全て(欠落や歪みも含めた全て)は生まれるべくして生まれた精緻な作り物であると考える。多かれ少なかれのデフォルメを繰り返し、作者の構想や時にはその世界自身の意志に沿って最適化していく。全ての物には指向性が与えられ、物語上において各々の役割を演じることが求められる。無駄は許されない。
このような世界において僕っ娘というものを考えた時、既に成熟した僕っ娘は──完結し損ねた歪みは果たしてどれだけの意味を持つのだろう。我々にしたって生きた蛹を延々と眺め続けたいのであって、死んだ蛹に用は無い。しかも物語は、そうした者共を容赦無く置き去りにしていく。だから僕っ娘は皆何らかの形で未発達で、そして必然的に不完全性を宿す。

青少女型僕っ娘はこの不完全性を色濃く映し出すと共に、自覚する。巣籠カナの場合、子どもであるということや大人になるということについて、絶えず煩悶する。というか、させられる。また大人という存在、社会という概念に対して不信を抱きつつある。そして同時に、確実にそこへ向かって進んでもいる。進みながら、焦る。

決めてないこと、わからないことは多いのに、時間はどんどん経っていく。来年には十六歳に、再来年には十七歳になってしまう。いったいどうしたらいいんだろう? 日々はとても辛くて、はやく大人になりたくて、でもぜったいなりたくなくて。ほとんどの大人のことが嫌いで。
 あるとき突然、ふいにいろんなことが全部“わかった”って気になって、そんな日はすばらしく空も晴れていて……だけどその一瞬後には、やっぱりまたもとの混沌とした気分に戻っていってしまう。

この青臭さが彼女を大層魅力的にしているのは言うまでもないだろう。白雪のような美しさではなく、水前寺千晴のような強かさでもなく、巣籠カナの青臭さこそが、彼女を良き僕っ娘、良きキャラクター足らしめる。ラノベの主人公たるもの、こうでなくてはならない。