男の娘って、何でできてる?

ついつい「日記」などというカテゴリを設けてしまったせいで、早くも軸がぶれつつある。これまでの人生何一つとして初志を貫徹できずにきたが、今回もまた同様の舞を踏むのだろうか。できればそうはなりたくないが、どうせ踏むなら誰もいないところでこっそり踏みたい。

録り溜めしていた『放浪息子』を観る。
ところで記憶が確かなら、我が人生原初の女装キャラは吉住渉ミントな僕ら』が主人公、南野のえるだった。『放浪息子』二鳥修一は俺にとって、南野のえる以来の女装主人公ということになる。
二人は女装に関する方向性(手段か目的か)こそ違えど、物語全体のフィクション濃度や二次性徴の訪れ等ある程度の条件をシェアしている。が、「見ていられない」の程度は南野のえるより二鳥修一の方が断然上である。二鳥は女子寮に潜り込んでいるわけでもなければ、何も知らないルームメートと従兄弟のふりしてデートするわけでもない。親友とのキスの瞬間がプリクラで残っているわけでもない。
にも関わらず、俺は二鳥の一挙手一投足に理由も無くハラハラしている。『放浪息子』という作品全体から醸し出される、この生々しさといったらただ事ではない。