さっそくだがブラウザゲームに倦た。倦というものはもちろん俺達個人個人の意思とは関係なく、どこからか突然やってきて、今まで激しく熱していた部分へどかっと居座る大変な輩である。去った後に無力感と退廃感をたっぷり残していくあたり迷惑極まりない。それはいわばせっかくひとつどころに集力していた興味と熱中を冷ややかに笑い飛ばし突き剥がし蹴り殺したうえで小便をかけて去ってゆくような畜生であり、さしものじゃぱにーずさぶかるちゃあ、その圧倒的造形力を以てしてもこの概念を良玉に仕立てることは困難であるとおもう所存である。俺は倦ることを嫌悪しているらしい。憎悪と呼んでもいいかもしれない。たとえば、ゲーム棚にふと目をやる。かつてはそのタイトルだけでこの胸を震わせた(誇張)名作の数々が、今やいずれも色あせ朽ち果ててすっかり心ひかなくなり、俺とくればパッケージを開けることすら億劫に感じている。そしてこれからも生ある限り常何時も無限に倦てゆかねばならないということ直観すると、あまねく一切が急に磁力を失ってくるような気がしてくるのだ。たとえ未開封のプレゼントボックスを前にしてもだ。いまのおれは、世界中の人間を並べてみてもかなり無気力なほうだとおもう。今日の日記にしてもひらがながやたら多い。文字を変換するのにつかれた。なんと段落もここまで単一。最近きづいたのだが、段落を分けることは文章を脈絡豊かに構築することであり、たいへん体力を使うのである。ところで倦ることと諦めることは似ている。たとえば文章に倦ると、文章をまとめるのを諦めてしまうようになり、きわめて雑な結文となる。こんなふうである。