三十六/ノスタルジックの変遷

今日の出費
食費
森永 Bakeショコラ×2 二五六円
おーい、お茶 まろやか 一四七円
雑費
今井哲也『ぼくらのよあけ 1』(アフタヌーンKC) 六一九円
合計 一〇二二円


今井哲也『ぼくらのよあけ』を購入。キーワードとしては小学生と地球外知性体、友好的ファーストコンタクト、嘘をつくAI、世代交代などなど。強いて総括するなら、手垢の付いた素材を寄せ集めていい具合にジャパナイズしたといったところだろうか。もちろん誉め言葉であって、俺はまさしくこういう作品を読みたかった。
それから謀らずも『屋上姫』以来の「屋上に水が張られた」カットに遭遇したわけだが、こちらのもなかなかよかったと思う。何を隠そうこの作品、風景の描写が異常にきめ細かい。人物はほとんど頭身の差だけで年齢を描き分けやがっているくせに、屋上や街並みといった舞台だけは徹底して作り込んできている。「絵」と「地の文」がトレードオフであり、しかも表現幅・情報量という観点からすれば前者が圧倒的優位である以上、作画を可能な限り丁寧に行うのは漫画家の使命ですらあると考える。特にどちらかといえば情報量の少ない方が投影の楽な人物と違って、背景の作りは確実に作品の出来を反映してくる。つまりこいつは良作だということが言いたいのだ。
ところで作中には缶蹴りをするシーンが登場する。役割的にはSF要素『マーカー』を導くためのものだろうが、ノスタルジックを強調する意味が込められているのは否定出来まい。また河川でのカエル捕りなども、いわゆるノスタルジアを兼ねた描写であるのは明らかである。問題にしたいのは、最早そうしたものはノスタルジックではないということだ。二〇一一年も半ばを過ぎて、缶蹴りカエル捕り、それらは郷愁から憧憬へと変わった。そしてやがては幻影へ、さらには伝説へと昇華していくだろう。いまある『郷愁』が現実の世界から、また生きている人々の思い出からも消え去ったとき、表現者は如何にしてそれを記号化するのだろうか。