切りとりたがり

小説において、映画において、漫画に、ゲームに、その他諸々の記述において、受け手が直接的に鑑賞(干渉)できるのは、描写もしくは作製された部分のみである。たとえば十年のスケールを持つ物語があったとする。その十年間に全物語世界で起こった出来事は情報量としては膨大で、だから作り手はその世界で起きた物事の中から、描かんとする物語に相応しい部分だけを抽出して出力する。“描かれないものは存在しない”とは言うが、結局のところ我々や時に作者までもがその存在を認知出来ないに過ぎない。誰も認知出来ないので“存在しないことにする”約束になっているだけで。「ちゃんと作らないと動かない」、鍋島氏は実に良い言い回しをしたと思う。
聞いた話をひとつ。日記文学における一ファクターには、自分の人生をいかに切り取るかということが挙げられるという。日記文学といっても現実に則したいかにも日記といったやつからノンフィクションとするには余りに眉唾な代物まで様々なのだが、いずれにしても。
場合によっては編集なる言葉に代替される、切りとるという作業は作品を良く見せるためには不可欠なものだ。どう良く見せるのかと言えば、それは効率良くということに他ならない。あるシーンが架空の値・感動値を有するとしよう。それが高ければ高いほど、そのシーンは我々の琴線を震わせ得る。しかしながら感動値が我々の心に届くまで元の値を取り続けることはない。役者の力が足りんだとか前後の繋がりが悪いだとか隣席の野郎の貧乏揺すりがうるさいだとか、そういったもの共と絶えず摩擦し減り続ける。その摩擦を少しでも減退させようという絶え間無い努力と妥協の積み重ねが、つまり編集であると妄想する。芸術作品に限らず、我々含む森羅万象は意図するとしないとに関わらず編集作業を毎瞬単位で繰り返しておるものと、これは直感的だが主張したい。そうして中でも極めて巧みに切りとられた一瞬は、動画にしろ、静止画にしろ、モノクロにしろカラフルにしろエログロにしろハートフルにしろ、観る者の内に発見と衝撃をもたらす。小さな水溜まりに晴れ間が映っているのを見て、ちょろっとそんなことを思う。