いんてる先輩、という可能性

■今日のボクっ娘
ゆーじ『いんてる先輩』(一迅社REXコミックス)より いんてる先輩
太古、コンピューターは男であった。その裏付けは彼らの有する、雑じり気ひとつ無い純粋理性。鋭いほどに断定的で冷徹なまでに実利的な、男の理性。彼らは時として数学者や医者、物理学者の姿を借りて喩えの世界に顕現せしめた。その誕生から此方側、コンピューターは常に我々の良きパートナーであり続けたが、ヒトの怠惰を尻目に刻々と変化を遂げてもきた。
一つの革命がある。一九六五年、ファジー理論体系。ここを特異点として、コンピューターは名の通り曖昧さを獲得する。曖昧さとは父性に非ず。時に許し、時に譲歩し、数学的帰着を回避する、それは母性に近い。ファジー理論をその内に取り込み父母両性つまり人間性を得たコンピューターは、ヒト化への道を敢然と歩み始めることになる。
一つの革命がある。二〇一一年、いんてる先輩。彼女は、いや彼は、いや彼女は何なのか。本当に何なのか……。立ち絵一枚としてしか存在しない天野喜孝系異色購買部・橋本さんを一とした、ぽっと出であるが故に絶対に後先考えていない濃さの脇役達の中において、尚揺るぎ無い存在感を放ついんてる先輩。アホ毛で空を舞いほとんど全ゲーム機の読み込みに対応しているいんてる先輩。どう考えても何か入ってるよ……Intel的な何かが……。
少し話が変わるが小説、漫画、フィクションとは、現実において記号化による分解と実体化による再構築──いわば概念のエキサイト翻訳を為し得る場である。より人間らしいコンピューター(思うに、同胞探しに必死な人類は内外二方に向けて知性体の発見ないし創出を追求している。かたや宇宙の彼方へ、かたやコンピューター技術へ)を要素化し、それこそ理性的に再構築したとき、インターフェースとして完全な女性を持ちソフトとして完全な男性を与えられた、混成にして別個なる、いんてる先輩が傑出した。と、考えたい。このような分離を見たキャラクターを摂取したのは初めてなので、大変新鮮な気持ちである。
ところで、いんてる先輩は四機目に限って僕っ娘からボクっ娘になるわけだが、これは作為的なものか否か。女性的属性的描写の際立った回であるだけに、よくわからない。確かなのは、いんてる先輩がこの話のおかげで堂々たる『男性的僕っ娘』という境地の開拓者としての立場を失ったことのみである。唯一この立場を回復できるのはこれが“ボクいんてると僕いんてる区別化”の布石である場合のみだが、無論『男性的僕っ娘』など間違いなくニッチなので良手であるか疑問手であるか詮ずることではない。