さっそくだがブラウザゲームに倦た。倦というものはもちろん俺達個人個人の意思とは関係なく、どこからか突然やってきて、今まで激しく熱していた部分へどかっと居座る大変な輩である。去った後に無力感と退廃感をたっぷり残していくあたり迷惑極まりない。それはいわばせっかくひとつどころに集力していた興味と熱中を冷ややかに笑い飛ばし突き剥がし蹴り殺したうえで小便をかけて去ってゆくような畜生であり、さしものじゃぱにーずさぶかるちゃあ、その圧倒的造形力を以てしてもこの概念を良玉に仕立てることは困難であるとおもう所存である。俺は倦ることを嫌悪しているらしい。憎悪と呼んでもいいかもしれない。たとえば、ゲーム棚にふと目をやる。かつてはそのタイトルだけでこの胸を震わせた(誇張)名作の数々が、今やいずれも色あせ朽ち果ててすっかり心ひかなくなり、俺とくればパッケージを開けることすら億劫に感じている。そしてこれからも生ある限り常何時も無限に倦てゆかねばならないということ直観すると、あまねく一切が急に磁力を失ってくるような気がしてくるのだ。たとえ未開封のプレゼントボックスを前にしてもだ。いまのおれは、世界中の人間を並べてみてもかなり無気力なほうだとおもう。今日の日記にしてもひらがながやたら多い。文字を変換するのにつかれた。なんと段落もここまで単一。最近きづいたのだが、段落を分けることは文章を脈絡豊かに構築することであり、たいへん体力を使うのである。ところで倦ることと諦めることは似ている。たとえば文章に倦ると、文章をまとめるのを諦めてしまうようになり、きわめて雑な結文となる。こんなふうである。

ハンナ・キンスキーにハイブロンズを混ぜるだけの簡単なお仕事である。そしてまたしても局地戦に出忘れた。そろそろコインが底を突く。

銀カードの進化で背景付カードへ分岐することを確認する。変異確率は40%。おおよそ材料の属性毎に枝分かれしているようで、少なくとも無属性のカードとの組み合わせはいずれも同一の変異予想を見せた。分岐を左右するのは両者の属性とそして少々の特殊配合、といったところか。
このことからわずかに推論らしきものも立てられるかもしれないが、とりあえず単なる事実として受け止めておくことにする。一例を以て全てを見たつもりでいるのは少々大人気ないようでもあるし、そのように立てた論はだいたい間違っているものなので。

鼻の下にニキビができる。回春なる言葉が頭をよぎる。いったい俺の身体に何が起きているのか。

ガン・ブラッド・デイズのoβが再開された。どいつもこいつもロイヤルブロンズ出しすぎである。俺のところでは早くも紗常真弓が4つダブった。やぶれかぶれに彼女だけで部隊を組んでみるも、圧倒的ピンク力に言葉が出ない。割合しっかりとした背景のあるキャラクターを『融合』するというよく解らないシステムだけに、かような編成だと一層不気味さが増すのである。

ところで俺は未だ一等准尉(レーティング的には下の上程度の位階と思われる)に過ぎないのだが、早くもレートポイントを入手するのが難しくなってきた。サーチ機能や仕様解明がほぼ皆無と言ってもいい現状、個々の戦闘記録等々を地道に記録できる者が得をするのは自明の理というやつであろう。といってもスクリーンショットを撮るだけなのだが。

宮城エリアにてイーヴァ・クロダ持ちと遭遇する。大変羨ましい。

以下の作品を購入する。

リューシカ・リューシカ4/安倍吉俊(スクウェア・エニックス)
Xトーク/来楽零(電撃文庫)
スワロウテイル-人工少女販売処/藤真千歳(ハヤカワ文庫JA)
犯人は夜須礼ありす/伊都工平(MF文庫J)
ネバー×エンド×ロール―巡る未来の記憶/本田壱成(メディアワークス文庫)

長い間購読する気力を失っていたが、ここ最近でにわかに手持ちの本が増えつつある。冬に向けて食料を蓄える熊のようである。本格的な夏の侵攻がここで足踏みしたので、ここぞとばかりに金を吐いてしまった。よく考えてみるとそんなに焦って買う必要ないものも混じっている。「リューシカ・リューシカ」と「犯人は夜須礼ありす」以外は衝動買いに限りなく等しい。藤真千歳が生きながらえていることを発見できたのは収穫だったと思っている。書店で懐かしい名前にめぐり合うのは、遠くの街で昔の知り合いと逢うようなうれしい気持ちになるものだ。あとはせいぜい「冬の巨人」を探すくらいのつもりだが、このような寄り道は積極的に食っていきたい。もっとも、徳間デュアル文庫の2007年刊となれば、ついに本命が見つからずじまいとなる可能性もあるのだけれども。

暑い。こんなに暑くする必要が本当にあるのか……?
なんだか前も似たような文句を言っていた気がするが、それはたぶん日本の夏がやっぱり暑いからだ。僕にとって去年の夏と今年の夏は本質的に違わないらしい。とすれば去年の自分と今年の自分は本質的に違わないということに、つまりはそうならないだろうか。あー、あちい


最近義務教育過程にある生徒たちと日本語の勉強をすることがあった。作文書いたり長文読解したり。そのなかで確認できたことのひとつ。日本語の乱れとかなんとか言われて久しいけれど、僕は「ゆう(言う)」とゆう音便が好きらしい。というか、かなりお気に入りみたいだ。そうゆうことをゆうと良識ある人や良識人あらんとする人に横目で見られてしまうこともあるんだが、どうしたってうつくしゅうものはしかたがない。「ゆう」は「いう」よりずっと親密な印象がする。「ゆく」は「いく」より遥けき道を想起させる。発音的にもやさしいし。ところで、中学生は大人という人種がみんな等しく彼氏彼女持ちだと思ってるらしい。そんな桃色の世界で我々が呼吸できるものか。そもそも他人を勝手に大人扱いするのも過ちでしかない。やめてよね、僕はそんなつもりで生きてない。

蔦屋に行って本を買った。罪と罰とか、緋文字とか、きけわだつみのこえとか、要するにそんな感じのやつを6作品10冊。足を伸ばせばなんとか届く、といったところに新しく(およそ今年の春頃)出来た巨大な店舗で、本屋というよりも本のテーマパークと呼んだ方がふさわしいような空間だ。ちょっとした陸上競技会が開けそうなくらいに広がる敷地には、まずもちろん果てしない量の真新しい書物がある。つづいてゲームソフトがあり、卓上灯があり低反発クッションがあり万年筆があり、ところどころに休憩用のベンチがあり、端の方には本を片手にゆったりと休息できる喫茶店が併設されている。馴染み深い『TSUTAYA』ではなく、どこかおどろおどろしい『蔦屋』の看板を戴くのは彼らの意気込みが強く表れているからなのかもしれない。一つ問題があるとすれば角川文庫コーナーのすぐ隣にフランス書院のコーナーを設けてしまう、そのデリカシーのなさ。ライトノベルを買うのが苦手な人がいるのと同様、フランス書院を買うのに難儀する人々はまちがいなく存在するはずで、そうした人にはちょっとハードル高いだろう。しかし殊少年達にとってはその立地が却って好条件と化すらしく、件の棚にちらっと視線を投げながら肌色の路地を往復する男子小学生は1日あたりひとりやふたりでは済まない。経営側があえてこのような効果を狙っているならば、その戦略に水を挿すのは無粋を通り越して残酷ですらある。
とにかく、楽譜から官能小説まで。その品揃えはさすがといったところで、僕にとってはとりわけ岩波文庫を揃えてくれているのはありがたい。自分の住む町には岩波文庫を取り扱う書店がひとつも、ただのひとつもないからだ。そう考えてみると図書館が本当に偉大な発明であることがわかってくる。なにしろ図書館がなければ、この町の人々は岩波文庫を目にし手に取らないまま一生を終えてしまうかもしれないし、もしかすればそんなレーベルを知りすらせずに生きてそして死ぬかもしれない。

思いがけないことだが、最近の読書が古典(と呼んでさしつかえないであろう)作品に偏るようになってきた。2002年から2008年頃まではライトノベルくらいしか読んでいなかったのが、海外SFへ行き、国内一般文芸で一息吐き、ここにきて再三メインステージが流転しようとしている。年齢的な成熟によるものだろうか。たぶん違う。人の性癖はそう変わるものではない。名高いスタージョンの黙示を窃用すれば、あらゆるものの9割はクズである。よく言ってくれた。そして僕は2002年、つまり携帯電話会社がaudocomoボーダフォンで人々の間から21世紀という言葉が早くも忘れ去られようとしていて電撃文庫が2度目の絶頂期を迎えていたあの2002年から6年もの間、クズ山を掻き分け続けていた。ただそれに疲れたというだけの話だ。村上春樹とか、ハーラン・エリスンとか、トルストイとか、そういうわかりやすい当たりくじに心がなびくのはどうしたってしようのないことなんだ。そしてその当りクジすら引き尽くしたとき、たぶん僕は本を読むのをやめてしまうだろう。探すことだって簡単にやめたのだ。いつだって小説を読みたい、でも、読みたい本がない。

少し前の話になるが、『屋上姫』の三巻を買った。読むのがつらい。なにより主人公・黛の鈍感さがつらい。ノブが悪鬼とならないか、これだけが今心配です。
とくにサブカルチャー作品において主人公がおおいに鈍感であるのは今更言及するまでもないが、これはご都合主義的な鈍感さである。だからその精神構造については仕方が無いと割り切るべきところなのだけれども、やはりこうした主人公は「好きなキャラクター」に連ねることができない。鈍感さとは想像力が欠如していることの表れだ。そして想像力の欠如とは無関心さの表れだ。無関心な人間に関心を持つのは難しいというか、むなしい。
自らが無関心であることに気づくのは、無関心である故に難しい。よってこうしたキャラクターが中心に据わった物語は滑り出しこそ軽快なものの、最終的にはこじれる。しばしば長期化し、マンネリ化する。つまり、つまらなくなる。鈍感系主人公がくそったれな要因は概ねこのようなところではないかと思う。なお『屋上姫』については源条信忠が気づかせる者として役割の持てる位置にいるので、あまり心配していない。